「私の研究史」

「スペシエーション(化学種解析)に基づく地球化学の研究」

 その後1998年4月に広島大学大学院理学研究科地球惑星システム学専攻に助手として着任した。化学から地学への転向であり、大きな転機となった。以降、本格的にXAFS法を用いたスペシエーションを中心に据えた地球化学・環境化学の研究を開始した。研究室は、清水洋教授が主宰する新しいラボで、そこで沢山の学生(博士号取得者7名、修士修了者約50名、卒業研究のみ約15名)と一緒に研究をしてきた(2014年5月まで;図3)。当初はどのようにしたら学生さんと一緒によい研究ができるかに悩み、とても苦しんだが、徐々に学生さんに「任せて、待つ」ことが大事であることに気づき、それ以降多くの成果が発信できるようになった。
 研究内容は当初は、希土類元素地球化学の大家である清水先生のご指導も頂きながら、希土類元素を中心に研究していた。特に地球の過去の酸化還元状態の指標として重要とみなされてきたセリウム異常(Ce異常)について、Ce(III)のCe(IV)への酸化がその異常の原因とされてきたが、これまで直接的に価数比をXAFS法などで調べた例がなかったので、Ce(IV)/Ce(III)比を調べ、Ce異常の程度と比較することで、マンガン団塊の成因や花崗岩の風化過程などを調べた。

 *研究1: 岩石中のセリウムの酸化還元状態がもたらす地球化学的知見(「放射光」誌総説)

 このセリウムの研究は、地球化学で起きる化学反応の素過程を化学状態解明から調べた研究として自分でも楽しく進めることができた。その後、マンガン団塊の研究は多くの元素を対象にした研究に発展し、マンガン団塊・クラストへの微量元素の濃集機構の解明の研究(近日中に臼井朗博士らと共著の教科書「海底マンガン鉱床」(東大出版会)が出版の予定)、海洋環境でのモリブデンの同位体分別の研究(当研究室で学位を取得した柏原輝彦博士との共同研究)、セリウム安定同位体により古酸化還元状態の推定に関する研究(同・中田亮一博士との共同研究)などに発展した。これらの研究は、微量元素の化学反応性を物理化学的に調べることが、新たな地球化学的ツールの開発につながることを示しており、こうしたボトムアップ的な分子地球化学的研究が今後重要になることを示している(図4)。これらの研究(図5)にさらに興味がある方は、以下を参照して頂きたい。

 *研究2: 地球の化学環境の変化による元素の水溶解性の変化と生命の進化
 *研究3: 重元素安定同位体比の変動要因解明による地球の古酸化還元状態の精密な推定

 地球化学の重要な研究対象に、同位体というものがある。地球化学は、様々な試料が持つ濃度情報と同位体比の情報を大きな柱として発展してきた。ここで述べた研究2や研究3は、それぞれ濃度や同位体比を主題にしているが、それらの変化は化学素過程の積み重ねの最終結果として現れるものであり、濃度や同位体比の支配因子の理解には分子地球化学的考察が重要であることを示している(図6)。

 さて地球上で起きる同位体比の変化の要因には、主に放射壊変に伴って生成する子孫核種の元素の同位体比の変動と、研究2で問題にしたような質量の違いに起因する同位体分別による変動の2種類がある。特に前者は、地球科学試料の年代測定と密接に関連しており、地球化学的に極めて重要な分野である。この年代測定を行う上で、試料中の親核種と子孫核種が化学的に安定であることは極めて重要である。このうち親核種は、多くの場合試料生成時から含まれていたものなので、化学的に安定である。しかし子孫核種は、化学的安定性とは無関係に放射壊変により生成したものであり、その試料中の位置で化学的に安定になっているとは限らない。しかし、子孫核種が化学的に不安定なために、何らかの現象(例えば拡散や水による溶出など)で試料から除かれその濃度が減少してしまうと、得られる年代値は実際よりも若くなってしまう。このようなことから、放射壊変で生成した子孫核種の化学的安定性は、年代測定の基礎となる重要事項である。このような観点から、187Re-187Os年代測定系での子孫核種(187Os)のモリブデナイト中での安定性についてXAFS法から検討したのが以下の研究例である。

*研究4: 放射壊変起源の娘核種の結晶中での化学状態(「放射光」誌総説論文の3章参照)
「スペシエーションに基づく水圏環境化学の研究」

前項で述べたようなより純粋な地球化学的研究にも増して、環境化学において化学的素過程解析は非常に重要である。例えば、対象とする元素が有害元素や放射性核種であった場合、その元素の挙動そのものが関心の中心となるからである。

私は学生時代からアクチノイド元素というような、その挙動そのものに関心がもたれる元素について、環境化学的視点から研究を進めてきた。1999年頃から始めたXAFSによる化学種解明は、こうした分野で非常に有効であり、多くの指導学生と一緒に様々な元素の環境挙動に関する研究を推進した。このような視点からこれまで扱った元素には、アクチノイド元素以外に、ヒ素、アンチモン、セレン、テルル、タリウム、ヨウ素、スズ、鉛などがある。このうち、次の研究5では、ヒ素とアンチモンの研究を紹介している。

*研究5: XAFS法を用いたヒ素及びアンチモンの水-土壌系での分配挙動に関する研究

ヒ素は、バングラデシュの地下水の汚染など、世界各地の地下水で高濃度に見出されている。その原因は必ずしも人為的なものばかりでなく、地球化学的反応の理解が重要である。またアンチモンは、ハイテク産業の製品に多く含まれ、先進国型の汚染元素といわれている。そのため、これらの元素の化学種を調べて、その挙動を正しく予測することが重要になる。こうした背景に加えて、ヒ素とアンチモンという同族の元素の挙動を比較することで、2つの元素の地球化学にも新たな情報が得られる。同様の動機で、セレンとテルルの研究も進めており、多くの成果が得られつつある。

 また同様のアプローチで、原発事故で放出されたセシウムやヨウ素の挙動についても研究を進めている。このような研究から、分子地球化学的アプローチは、環境汚染・汚染元素の挙動解明などの分野で極めて重要であることが分かるであろう。

*研究6: 放射性セシウムの水-土壌-河川系での挙動解明(地球化学研究協会霞が関講座資料)
「スペシエーションに基づくエアロゾル中の元素の環境影響評価」

 水圏での環境化学研究を進めている間に、外部からのプロジェクト参加への依頼があり、黄砂などのエアロゾルを調べることになった。最初はとまどい、しばらくは割り当てられた仕事をこなすことに終始していたが、ある時エアロゾル表面で起きている化学反応は多くの場合水を介したものであるため、これまで扱ってきた水圏地球化学と同様の化学的知識が生かされる分野であることに気付いた。それで、エアロゾルを対象にしたXAFS実験を開始し、その中の様々な元素の化学種を調べることを始めた。これらの研究では特に、イオウ、カルシウム、鉄、亜鉛、鉛などを対象としているが、それぞれに別の環境化学的意義があり、非常に面白い。例えば、以下の研究7では、黄砂粒子による酸性雨の中和を扱っていて、その現象自体は知られたものであるが、放射光を用いたXAFS分析を行うことで、その化学的素過程がより明快に理解されることが分かる。

*研究7: 黄砂粒子による酸性雨の中和過程(高エネルギー加速器研究機構(KEK)の関連記事[1])

 またエアロゾルは、地球を寒冷化することで脚光を浴びており、その中でもエアロゾルが水を吸って雲を作る効果(間接的冷却効果)が注目されている(図8)。例えば、PM2.5などにも豊富に含まれる硫酸エアロゾルは、水を吸って雲を形成し、地球を冷やすとされている。ここで想定されているのは、主に硫酸アンモニウムという物質である。しかし、もし硫酸が硫酸カルシウムなど不溶性の化学種で存在したならば、水を吸わないので、間接的冷却効果は著しく低下するはずである。エアロゾル中の化学成分がどのような化学種であるかを調べることが、エアロゾルの持つ間接的冷却効果の評価に影響するというわけだ。もう少し大雑把にいえば、エアロゾル中の化学種の解明は、正確な地球温暖化の予測に必要ということになる。

研究8: 気中の有機錯体の生成と地球寒冷化効果への影響 (KEK関連記事、総説論文[1]、[2])
「基礎研究が新たな工学的研究を生み出す」

 こうした元素の地球表層での挙動解明の分野では、その化学的素過程に微生物が関与する場合が多い(例:酸化還元反応、吸着反応など)。そこで我々は、希土類元素の水圏での挙動に及ぼす微生物への吸着反応に関する研究も進めてきた。希土類元素は微生物細胞表面に濃集することが分かり、またその中でも重希土類元素が特異的に濃縮することから、希土類元素パターンがバイオマーカーとして使える可能性を指摘した。そんな折の2010年にレアアース(希土類元素)の資源問題が国内で深刻になり、我々の研究室では、これまでの研究をベースに微生物を用いたレアアースの分離・回収の研究を進め、この濃集が細胞表面のリン酸基によることをXAFS法で明らかにした。そしてこの研究成果がきっかけになり、同様にリン酸基を持つDNAを用いて、レアアースの分離・回収を行う研究に対象が広がった。実際の回収に用いる媒体として、微生物は培養が必要などの難点がある一方、DNAは産業廃棄物である白子などに多量に含まれ、DNAそのものは無害なので、レアアースの分離・回収にDNAは理想的な資材であることを示した。このような工学的な研究も、もともとは希土類元素の挙動解明や微生物表面での反応サイトを原子レベルで解明した結果が発展したものであり、基礎研究が新たな応用研究の途を開くことを改めて示したといえる(図9)。

研究9: 微生物やDNA・白子を用いたレアアースの回収(SPring-8やKEKの関連記事[1], [2])
「ビバ XAFS !」

以上示してきたように、分子レベルの現象に立脚した地球化学・環境化学は、様々な分野と接点を持つ大変面白い研究分野である。またそれが可能になったのは、XAFSなどの研究手法の発展によるところが大きい。そのため我々は、XAFS法の手法的な発展にも強い関心をもちながら研究を進めている。例えば、検出器の感度向上、試料槽の改良、マイクロビームの利用、などを基にして、XAFS法はさらに広範な分野への応用が進んでいる。特に我々のグループでは、妨害元素の信号の除去による天然試料中の微量元素の高感度なXAFS測定や、炭素の官能基マッピングなどの化学種別マッピングを50 nmオーダーの空間分解能で可能にするScanning Transmission X-ray Microscopy (STXM)などの利用も進めており、国内のXAFS法を用いた地球化学・環境化学の研究を先導している。

「おわりに」

以上のように、私たちの研究室では、地球惑星で起きるあらゆる化学素過程に関心を持って研究を進めています。研究の中心は、ずばり「化学」です。地球や宇宙や環境を構成する元素の濃度や同位体などに伝統的な地球化学的ツールに加えて、結合状態・局所構造・価数などの原子・分子レベルの情報をつきつめることで、環境や資源や地球史や、様々な問題を新しい切り口から研究することが可能になります。こうした分野は、「分子地球化学(Molecular Geochemistry)」と呼ばれ、放射光実験などの新しい技術の進歩により、今まさに私たちは、地球化学を原子分子の相互作用という最も本質的な立場から扱える時代を迎えたといえます。また、私たちの研究室は、2014年6月から東大地惑(地球惑星環境学科)で始まった新しい研究室です(図10)。研究テーマとして多くの可能性がありますが、例えば以下のようなものが考えられます。せっかく研究をするのであれば、「面白い」か「役に立つ」かのいずれかの要素を満たすべきと思っていますが、どうせなら面白くて役に立つ研究を目指したいなあと思います (参考HP)。 この分子地球化学は、そんな研究が可能な分野なのです。